民俗考12_「見立て」という路上的想像力
路上観察の特徴の一つは、他人が見過ごしてしまうようなモノに価値を見出すことである。赤瀬川らが発見したトマソンも、林丈二が注目したマンホール、あるいは藤森が発見した看板建築も、本来は誰も特別な意味を見出していなかった存在であった。しかし、観察者の視線によってそれらは新たな意味を帯びる。
こうした視線のあり方は、1980年代に突然現れたものではない。江戸時代の人々もまた、風景の中に珍奇なモノや不思議さを見出し、それを楽しんでいた。
弘化4年(1847)に刊行された『金毘羅参詣名所図会』は、著者の暁鐘成が現地調査を行ったうえで、金毘羅参詣道や遍路道の各所に存在する名所について、挿絵とともに解説を行った、いわば江戸時代の『るるぶ』だ。

そこには弥谷寺(三豊市三野町大見)から鳥坂峠を越えて曼荼羅寺(善通寺市吉原町)に至る遍路道に、「人面石」と呼ばれる奇岩があることが、挿絵とともに記されている(図2)。それによれば「巨厳悪相の人面のごとし」、つまり悪人のような顔つきをした巨岩があるという。この名所は、近代に入ってからも『讃岐名勝地誌』(明治32年)にも「悪相なる人面」と記されており、テキスト空間においては、悪人の顔、という評価がなされ続けてきたことがうかがえる。
一方で、地元の伝承では、この人面について「悪相」とは別の性格が付与されてきたようだ。『四国の昔ばなし』(山口青旭堂)所収の「人面石(善通寺市)」には、荒れた土地を開墾し、村を助けた大男が、飢饉の際に餓死した大男の苦悶の表情であるという。
旅人から見たら「悪人」、地元では「村を助けるも餓死した大男」、その語られ方は全く真逆だが、いずれにしても人々は風景から様々なメッセージを読み取り、物語を常に作り出し続けてきた。
また、こうした見立ての最たる例の一つは「象頭山」だろう。御承知のとおり、こんぴらさんが鎮座する山を、象の頭に見立てて象頭山と呼ぶ。いつ頃からそんな見立てがされるようになったかは不明だが、17世紀には「象頭山十二景図」という境内の画が描かれているから、この呼び方は結構古いらしい。日本に初めて象が来たのは、15世紀初頭のことらしいので、それ以降呼ばれるようになったのだろうか。
人面岩もただの岩、象頭山もまた単なる山に過ぎない。実際、現代の私たちが象頭山周辺から山容を眺めても、「象の頭みたい」と感じる人は少ないだろう。しかし、一度そう教えられると、誰が言ったか知らないが、言われてみれば確かに見える。
奇岩、奇木、あるいは何かの姿に見える山々等々。人々はそれらからメッセージを受け取り、名前と物語を与え、語り継いできた。名所とは、「何かに見える」という人々の見立ての想像力によって成立する空間でもあった。
百数十年後に路上観察学会が発見することになる路上の物件も、それ自体はただのモノでありつつも、風景との相互コミュニケーションを経て、「物件」として対象化した瞬間に、ありふれた風景は新しい意味を獲得する。なるほど確かに路上観察が1980年代に突然生まれたように見えるのは、その対象が都市にあったからであるが、見立てによって風景に意味を見出す想像力の歴史で言えば、少なくとも江戸時代の名所文化にまで遡ることができる。
※1 暁鐘成一世編 1847『金毘羅参詣名所図会 6巻 [3]』より転載(国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/14671802)
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