さて、これまで県内に伝えられる稲作儀礼を整理してきた。改めて事例を整理しておきたい。
 水口祭りは各家々で行われ、苗を育てる苗代に引き入れる水口に、神社配布の御札を立てる行事であるが、そこに田の神の去来伝承は付随しない。サイケ・サノボリはそれぞれ田植え始めの日、田植え終わりの日を指し、田の神の依代となる三把の稲束を特別視する伝承が県内各地に確認できたほか、オカノカミに供え物を捧げる事例が存在した。オカイレは、稲の収穫に際してオカノカミ系統の名称を持つ稲の神に供え物を捧げる習俗であり、田と家を去来する伝承が県内各地に確認できた。地神さんは集落で祀られる農神であり、春と秋の社日の日に祭りを行う。この社日の日に田の神は山と田を去来するという伝承が一部地域で認められた。
 さて、これらのうち習俗が行われるようになった年代がおおよそでも分かるのが地神である。石塔の建立年代から1800年代前半以降の習俗と考えられる。観音寺市出身の民俗学者、細川敏太郎は昭和中期に「オカハンは、地神さんや恵比寿大黒に比し、口にするものが一世代前の老人に多く、前にはそう言っていた」という重要な指摘をしている。こうした指摘から、サイケやオカイレ等の習俗はおそらく地神伝播以前から行われていたが、現在では田の神としての位置は地神に取って代わられていったことが分かる。その大きな要因は、育苗の際の水口祭りや稲を家に取り込む際のオカイレは、その儀礼と結びついていた工程が育苗センターやカントリーエレベーター等へ外部委託されることが多くなり、各家々で行われなくなったことで信仰が衰退したことにあろう。一方、地神は稲作の各工程に結びついているものではないほか、集落で祀る神であるために、比較的衰退しにくかったのだと考えられる。
 さて、田の神の去来伝承に話を戻そう。比較的はっきりと去来伝承が確認できる事例はオカイレであり、秋の収穫の際にオカノカミは最後の稲束を依り代として田から家に帰るのだという。「帰る」という表現には、家から田に出ていったという意識をみてとれる。サイケ・サノボリの際には、田の神が家から田に出るという伝承ははっきりと確認できないが、この日には、正月にオカノカミに供えた米で作った赤飯を供えるという事例が存在し、サイケ・サノボリの際に田の神として祀られたオカノカミが、オカイレの際に田から家に去来し、正月の神として祀られた後に、また春に田の神として祀られるという循環的な構造を指摘できよう。
 以上、複雑な讃岐の田の神信仰を考えるため、各習俗の歴史や去来伝承をヒントに、粗雑なガイドラインを引いた。全国的には、田の神は山と田を去来するというのが一般的であるが、こと讃岐の田の神信仰においては、オカノカミ信仰を基盤として、春のサイケ・サノボリ、秋のオカイレの際に家と田を去来するという伝承が主要であったが、だんだんと地神に取って代わられていったことを仮説として述べた。

参考文献
香川県教育委員会編 1982『新編 香川叢書 民俗篇』新編香川叢書刊行企画委員会
佐々木涼成 2023「香川県のオカイレ行事に関する基礎的調査と若干の考察」『香川の民俗』84号 香川民俗学会
細川敏太郎 1972『讃岐の民俗誌』三秀社
柳田國男 1949「田の神の祭り方(上)―月曜通信の十二―三月二十一日」『民間伝承』第13巻第3号 民間伝承の会

文:佐々木涼成/1996年埼玉県生まれ。民俗学を専攻し、2022年から香川県教育委員会の文化財専門員として勤務。

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