安政5年(1858)成稿の『西讃府志』にも、冒頭の通りこの習俗の記載があることから、江戸時代後期にはすでにこの習俗が行われていたことが分かる。この習俗には、田の神の去来伝承は付随しない。神社が配布する御札を立てることから、江戸時代に各地の寺社が主導しこの習俗を広めていったと考えられる。
かつては入排水の便の良い田の一画に苗代を作り、そこで苗を育て、水を引きいれる水口にお札を立てた。近年では、育苗センターから苗を購入する農家が増えたことにより、苗の成長を見守る田の神様も、段々と消えゆく風景となっている。
サイケ・サノボリ
「サイケハ、サヒラキノコトニテ田ヲ始テ植ウル日ヲ言ナリ。三野豊田郡ニハナベテ此日ヨリ植エ終ルマデ、日々赤飯ヲ炊キ篩ニ盛リテ竪臼ニ供フ。」
「サムバヘハ足洗トモイヒテ親シキ人ナド招キテ会飲ス」
『西讃府志』
サイケとは、田植え初めの日のことを言い、サノボリは田植え終わりの日に親しい人や田植えを手伝った人を招いて飲食を行うことを言う。サイケの際、県内各地では三把の苗を特別視する伝承が各地に見られる。例えば綾川町東分では苗三株をまず植えてから「三宝荒神さん、今年も豊作でありますように」と唱えるという。東かがわ市白鳥町入野山では、苗三把を神棚に供えるほか、小豆島町池田岡条では、苗三把から一本ずつうえ、南天と餅を供えるという。これら三把の苗は、田の神の依代となるものであると考えられる。また観音寺では、オカエビスやオカハンに赤飯を供えるが、その米は正月にオカハンに供えたものを使うという。
今では育苗や田植えの合理化、機械化が進み、こうした習俗はほとんど見られなくなった。
オカイレ
「秋稲ヲ刈収メ終リシ日ヲ、ヲカイレト云、保食神(ヲカノカミ)ノ入玉フナリトテ、小豆飯ヲ炊キ、枡ニ入レテ、宅神ニ供ヘ、家内打祝フ」
『西讃府志』
稲の収穫をする際に、最後に刈り取る稲束に田の神が宿るとして神聖視する風習は全国的に見られるが、香川県でも同様で、綾川町羽床上では、稲を刈り終えた日に、オカイレをしないと、オカノカミ(田の神)は裃を着て、家の戸口にいつまでも立っているから、田んぼから取り込んだ最後の一束の稲を抱えて庭に行き、「オカノカミサン帰ったぜ」と声をかけるのだという。また、東かがわ市白鳥では、最後に刈り取った稲を戸口にたて、ぼたもちを供える。この最後の稲束を家に持ち帰る際に田の神が家に帰ってくるのだという。
香川県のオカイレ習俗の多様性については、[拙稿 2023]をご覧いただきたいが、オカイレは、稲の収穫に際して、オカノカミ、オカエビス、オカハン等のウカノミタマ系統の田の神に、供え物を捧げる習俗であり、香川県全域に確認できる。そして、オカノカミには、田と家を去来するという伝承が付随する。
現在では、収穫した稲はカントリーエレベーターに運び込まれ、稲を家に取り込んだ日に行うオカイレは全く行われなくなった。
地神
香川の農村を歩けば、必ずと言っていいほど五角柱の「地神塔」を見つけることができる。正面に「天照大神」、その他の面に「埴安媛命」「倉稲魂命」「大己貴命」「少彦名命」を刻む。祀りの日は社日、つまり春秋の彼岸に近い戊の日(概ね3月中旬、9月下旬)であり、この日は神職の最も忙しい日と言われる。なにせ各自治会に地神塔があって、宮司が一日かけて地区内の地神塔を忙しく回る。それでも、地神塔に集まる集落の参拝者の「田んぼに関わることだから、絶対に欠かせない」という言葉に応える宮司の姿が印象的であった。
さて、この社日の日は、田の神さんが田んぼに宿る日として、田んぼには入らないという伝承が広くある。また、三豊市豊中町のある家では、春の社日に地神さんは山から野に下り、秋の社日に山へ帰ると伝えられ、観音寺市においても同様の伝承が確認できる。一方で、三豊市三野町では、春の社日に田の神は家から田んぼに出て、秋の社日に田んぼから家に帰るのだという。三豊市高瀬町新名では、集落単位ではなく家単位で地神を祀っており、それはオカハンだという。オカノカミと地神が習合している事例として貴重である。
石塔に刻まれる年号から読み解くと、こうした五角柱の地神塔は文化・文政年間頃に阿波から讃岐に伝播したもののようだ。これまで述べてきた各家々で行われる稲作儀礼は大きく衰退している状況にあるが、こうした集落での農耕行事は現在でも実施されている。
この五角柱の地神塔は、香川にはどこにでもあると言っていいほどだが、実は香川、徳島、岡山に集中的に分布するのみで、他県には存在しない。一部瀬戸内地域から移住した人によって、北海道に建てられるのみである。香川の当たり前の風景だが、一度外に出たら見つけることは出来ないものである。

古高松町の地神
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