presented by 木下製粉株式会社

1960年頃の様子
知ってるようで知らない
実は謎だらけの讃岐うどん
讃岐うどんと言えば名実共に香川のソウルフード。多くの県民がそれぞれお気に入りの店を持ち、またそのコシやだしの味について語り出すと止まらない存在なのは、今さら言うまでもないことです。しかしその反面、いつからこの食べ物が食べられてきたのか、製法はどのように確立されたのか、お馴染みのメニューの元祖はどのお店なのか等々、改めて考えてみると知っているようで意外と分からないことが多いことに気付かされます。このコラムでは、そんな知る人ぞ知る(知ってる人は知ってますが)過去から受け継がれてきた讃岐うどんのルーツについて触れていきます。この話を思い出して、あなたの讃岐うどんライフがより豊かなものになれは幸いです。
うどんを讃岐に伝えたのは
あの人じゃなかった?
まず最初の疑問は、讃岐うどんはどこから来たかということ。現在では空海が中国から伝えたという話が、ほぼ通説のように語られていますが、実はこの説、誰が言い出しっぺなのか定かではありません。昭和40年代後半頃にこのストーリーが広まりだしたようなのですが、裏付ける文献などの物証も全く見つかっていません。うどんの原型といわれている中国の「こんとん」は、奈良時代には既に渡来していたそうなので、平安時代の空海とは時代も違いますよね。まあ四国の人は良いことは皆空海のお陰にしてしまうので、分からなくて誰も困らないのならそれも良いのかも知れませんが(笑)。
冗談はさておき香川県内の最も古いうどんの記録は、金刀比羅宮に伝わる江戸時代の金毘羅参道を描いた屏風絵です。参道沿いの店の中にうどん屋と思われるお店が3軒描かれていて、参拝客にうどんを提供していたことがうかがえますが、どんなメニューを出していたのか等、この絵からは詳しいことは分かりません。
またうどん打ちに欠かせないのが小麦とその製粉を担っていた水車。平安時代には既に讃岐は税として麦を納めていて、江戸時代の百科事典「和漢三才図会」には品質の良い小麦の産地と記されているので小麦の生産は盛んだったようですが、うどんとして食べられていたのかどうかは不明です。水車の普及は江戸時代後期で、かつて県内にあった水車もその頃以降のものであることから、うどん作りが庶民に広まったのはその辺りなのかも知れません。うどんのダシに使う醤油が一般に使われるようになったのも、江戸後期なので時期は一致しますが。さらに讃岐うどん特有の、足で繰り返し踏んで鍛える製法も、なぜこんなに他県と違う作り方になったのか、それはいつどんな人が考え出したのか、これも記録がないため分かっていません。
というわけで讃岐うどんは、こんなに身近なのに、伝わった時代も独特の製法の成立過程も「全て謎」という食べ物なんですね。謎が解かれると期待された方はすみません。庶民の食べ物なので記録も残りにくかったのも謎の一因かと思われます。今後新たな証拠が見つかることに期待しましょう。
様々なタイプの
うどん店の栄枯盛衰
讃岐うどんの始まりはとりあえず置いておいて、次に注目したいのはお店の業態です。現在讃岐うどんのお店は、セルフ店、フルサービス店、そしてうどんが食べられる製麺所の3種類に大きく分けられます。しかし今はうどん業界の主流になったセルフ店が登場したのは昭和40年代。今では姿を消してしまいましたが、明治から大正にかけてはなんと屋台の夜鳴きうどんも盛況でした。
かつて香川県内には先ほど触れた水車が数多くあり、小麦粉の製造でうどん作りを支えていました。昔は自宅でうどんを打つ人たちも多かったのですが、同時に挽いた小麦粉をうどんに加工してほしいというニーズに応える水車もあり、その流れで集落毎にあった水車は、製麺所に商売替えした所も結構あったようです。例を挙げると国分寺町にあったうどん店「まんどぐるま」は、万灯地区にあった車(水車)が店名の由来、まんのう町(旧琴南町)の三嶋製麺所や谷川米穀店も水車がルーツのお店です。
昭和30年代頃までは店で食べるうどんは製麺所から仕入れるのが主流でした。高度成長期には、外食需要が一気に増加したためさらにうどん玉の需要が高まり、当時のうどんを打てる人が多かったのもあって、製麺所を始めた人も多かったようです。
順風満帆だった製麺所ですが、新しいタイプのお店の出現により風向きが変わってきました。そうセルフ店の登場です。店内で製麺し安く手軽に食べられるセルフ店は大人気で、その数を増やしていきました。また店頭実演を行うフルサービス店も増加し、うどんは仕入れから、自家製麺のお店が当たり前になり、製麺所の納品先は徐々に減って行くことになります。最初のセルフ店は、かつて高松市番町にあった製麺所・久保製麺と言われていますが、このようにセルフ店や食べさせるタイプの製麺所を、うどん玉の配達と並行して営むようになったお店も少なからずあったようです。そしてクオリティの高い冷凍うどんの登場によりシェアを一気に奪われ、現在納品オンリーの製麺所は姿を消しつつあります。
「讃岐うどん」の誕生から
怪しいうどん屋巡りのブームまで
「讃岐うどん」という名前は、19
69年の大阪万博を機に全国に広まったと言われています。その命名者は当時の金子知事や彫刻家の流政之氏など諸説ありますが、この時にそれまで地元の人は当たり前過ぎて名物だと思ってなかった「うどん」が「讃岐うどん」に昇格したのは間違いないようです。県が観光キャラバン隊を送り出してPRを続けたことも功を奏して全国的に知名度もアップし、第1次讃岐うどんブームが訪れました。次にブームが来たのは約20年後の1988年。瀬戸大橋が開通して博覧会が開催され、香川を訪れる観光客の増加と共にうどん店の売上も上昇することになります。
そして瀬戸大橋効果がなくなり、観光客が減りつつあった1990年の初頭、地元タウン誌の連載がきっかけで始まったのが、今まで光が当たってこなかった「怪しい製麺所」を巡るという新しい形の讃岐うどん観光です。その後連載をまとめた単行本の出版や、全国放送のテレビ番組で度々取り上げられるなどの効果で、うどんを食べるためだけに香川県を訪れる観光客が激増。この流れはブームが過ぎた後も、定番の観光スタイルとして定着し、現在も多くの県外客が訪れています。余談ですが、このIKUNASが創刊した2006年は、怪しい製麺所をテーマにした映画「udon」が公開された年で、ブームの盛り上がりが最高潮に達した年でもあります。
さらに2002年には県内のセルフチェーンが県外へ出店。その後全国へ展開したことで、讃岐うどんの知名度はさらに高まりました。
ブームの思わぬ効果と
これからの新しい流れ
「怪しいうどん屋巡りブーム」は、思わぬ副次効果ももたらしました。香川県を訪れ、讃岐うどんのおいしさに感激した県外の観光客の中から、うどん店の開業を志す人たちが現れたのです。それまで県内でも、うどん屋志望者は結構いたのですが、彼らとはまた違う県外人ならではの視点と、なにより大好きな讃岐うどんに真摯に取り組む姿勢が高評価で、県内で人気店になったお店も少なくありません。また香川でうどん作りを学んで県外にお店を出す人も増えたため、本格的な讃岐うどんを他県で食べられる機会も増えました。近年では若い店主の間で、技術交流やコラボも盛んに行われていて、さらに新しい流れを作っています。
木下製粉株式会社
香川県坂出市高屋町1086-1
tel.0877-47-0811
公式サイト https://www.flour.co.jp/
通販サイト https://www.farina.co.jp/
篠原 楠雄
地元タウン誌編集部で14年間在籍した後独立し、フリーライターに。20年間に渡り香川県内に新しくできるうどん店を取材し続けたおかげで、すっかりメタボ体質に。「麺通団」の初期メンバー・S原だが、ふが悪いので普段は名乗るのを控えている。好きな食べ物は柿ピーとあんまん。
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