vol.20

第二回:食べさせる製麺所が生まれた経緯 |讃岐うどんの系譜をたどる

presented by 木下製粉株式会社

そもそも製麺所って
何をしているところ?

 前回は讃岐うどんの歴史について大まかに触れましたが、今回はもう少しミニマムな所に視点を変え、「製麺所」について語ってみたいと思います。製麺所と言えば、できたてのうどんが食べられる香川県ではあまり見られないうどん店の営業形態を思い浮かべる人も多いのではないでしょうか。また近年では、製麺所や製麺という名称がうどん店の店名に使われることも多くなり、老舗の製麺所がその数を減らし続けていることも相まって、その意味を誤解している人も少なくないようです。

お米よりもかなり難しい
小麦の小麦粉への加工

 製麺所の話の前に、うどんの主な材料である小麦粉について触れたいと思います。小麦粉の元となる小麦の栽培が広く行われるようになったのは、戦国時代から江戸時代初期にかけてのこと。年貢の優遇もあって米の裏作で小麦を育てる二毛作が盛んに行われ、特に水不足で米の生産量が安定しない香川では多く栽培されたようです。しかし栽培量は増えても小麦は表皮が厚く米のように簡単に精麦できないという難点がありました。そのまま茹でても食感が悪いため、おいしく食べるには挽いて小麦粉にする必要があったのです。その役割を担ったのが水車。人力では石臼を使って細々としか挽けなかった小麦粉が、水力を利用して大量に作ることが可能になったのです。
 江戸時代初期に藩やお寺等により各地に作られ始めた水車は、庶民が気軽に利用できるものではありませんでした。しかし後期になると、持ち主は藩やお寺のままでも、事実上の運用が農村の有力者や商人に移行、持ち主に権利料を支払うために庶民にも利用を解放し、利用料を取って製粉を始めたようです。「讃岐の水車」という県内に存在した水車をくまなく調べ上げた本には、江戸時代後期に設立された水車が約380基も掲載されていて、この頃から水車での小麦粉製粉が一般化していったことを伺わせます。この流れは大正まで続き、農村には水車の動力を利用した製粉業が増えていきました。

小麦の加工料の物納と
小麦通帳

 この時代の庶民、特に農民はあまりお金を持っていなかったので、実際の加工料は持ち込んだ小麦の一部で支払われることが多かったようです。さらに挽いた小麦粉でうどんを作る業者が現れ、恐らくこれが最初期の製麺所の形態のひとつだったのではないかと思われます。うどんまで加工する場合は小麦粉より多くの加工料が必要でした。また持ち込んだ小麦をすぐ持ち帰らずにいったん記録しておき、後から好きな時に小麦粉やうどんを受け取れるという「通帳」的なものも存在していました。この江戸時代の製粉所兼製麺所の姿をそのまま残しているのが、高松市の「高原水車」。精麦しにくい小麦を何度も石臼に送り込む当時の仕組みは、まるでからくり屋敷のようで、当時の技術者の苦労が偲ばれます。
 このように水車での製粉業から製麺業を経て、現在はうどん屋として営業しているのが、まんのう町の三嶋製麺所や谷川米穀店。既に閉店されましたが、坂出にはその名も「水車」というお店や、高松市には「万灯地区の水車」を意味する「まんどぐるま」等もありました。
 また明治から大正・昭和初期頃には、高松の市街地で数多くの夜鳴きうどんの屋台がしのぎを削っていました。さらにうどんを食べさせる食堂がかなりの数営業しており、どちらも当時の文献や新聞に度々登場しています。この屋台や食堂にうどん玉を卸していた小規模な製麺業者も、それなりの数が市街周辺にあり、それらの業者は製粉をせず、小麦粉を仕入れて製麺していたようです。

終戦後、県内各地に
多くの製麺所が開業

 第二次世界大戦が終わると、それまで食糧統制でうどんが食べられなかったうっぷんを晴らすかのように、県内各地に多くの製麺所ができます。この頃は現在より自分でうどんが打てる人たちが多かったため参入へのハードルが低かったことに加え、同じ時期に重労働のうどん作りの作業の一部を肩代わりしてくれる、様々な製麺用の機械が売り出されたのも製麺所開業に一役買ったのかも知れません。小麦製粉の動力も水力から電力に代わり水車は徐々に姿を消していきます。

食べさせる製麺所から
セルフ店が誕生

 そしてそんな製麺所の中から、昭和30年代頃ついに「食べさせるタイプ」が登場します。前回の記事内でも触れましたが、高松の「久保製麺」の例のように、客の「ここで食べたい」という要望で食べさせるようになったお店が多かったようです。といってもメインは製麺業ですから、接客にあまり注力できず、できることは客にやってもらうという苦肉の策が、後にセルフの原型になったというのだから、おもしろいですよね。余談ですが、坂出の「日の出製麺所」は、平成になって食べさせる形態に移行した珍しいタイプのお店なのですが、そのきっかけになったのも、製麺所ツアーにやってきたうどんマニアが玉売りのみの製麺所の店頭でうどんを食べ始めたことだったとか。いつの時代も讃岐うどん業界は、無理を言う客に対応してくれる優しいうどん屋さんに支えられているんですね。

そして訪れる
製麺所の黄金期

 その後高度成長期を迎え、働きに出た人たちの昼食を賄うために、うどん玉の消費が急増。この頃作って食べさせるのを専業にしたセルフ店や一般店も増えてきましたが、まだ卸し専門の業者も多く営業していました。屋台は既に姿を消していましたが、卸先も一般の食堂から会社や学校、病院、八百屋、スーパーなど多岐に渡り、今では想像できないほど繁盛していたようです。さらに昭和40年代には、袋入りで長期保存が可能な「LL麺」が登場。万博での「讃岐うどん」の知名度向上と併せて、県外へも生麺が出荷されるようになりました。

冷凍うどんの登場と
卸先の消滅

 順風満帆に見えた製麺業界ですが、強力なライバルにその座を脅かされることになります。それは冷凍うどん。余ればロスになる生麺と違い冷凍保存ができるため、会社や学校など大口客のシェアを少しずつ奪われて行きました。加えて、食堂や八百屋等の閉店が続いたことでも卸先が減少。その結果多くの製麺所が姿を消していくことになります。現在では卸しを続けている製麺所は、ほぼ絶滅危惧種と言っても良いほど数を減らしてしまいました。

製麺所はうどん以外の麺も
作っています

 冒頭に戻りますが、実は製麺所はうどんばかり作っているわけではなく、蕎麦や中華麺に至るまで、小麦粉でできる様々な麺類を、卸先の要望に応じて作ってきました。某製麺所の大将がお客さんから「ソバやラーメンや作らんと、真面目にうどんを作れ」と言われたという笑えない話もありますが、元よりそういう業態ですから、温かく見守っていただきたいと思います。


木下製粉株式会社
香川県坂出市高屋町1086-1
tel.0877-47-0811
公式サイト https://www.flour.co.jp/
通販サイト https://www.farina.co.jp/


篠原 楠雄
地元タウン誌編集部で14年間在籍した後独立し、フリーライターに。20年間に渡り香川県内に新しくできるうどん店を取材し続けたおかげで、すっかりメタボ体質に。「麺通団」の初期メンバー・S原だが、ふが悪いので普段は名乗るのを控えている。好きな食べ物は柿ピーとあんまん。

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