讃岐一景を訪ねて_vol.04
民俗考_讃岐の田の神信仰
June 27,2025
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神様は生活の中の願いと苦労の隙間に存在する
稲の育苗は「鶴の機織り」のようなものだという。その心は、決して中を開けてはいけない。苗はデリケートで温度変化に弱いため、遮光シートで覆って一定の温度を保つ必要がある。
苗の健やかな成長を祈って、県内各地では神社が配布する「ゴーサン」や「マットメサン・マツノミヤサン」と呼ばれる御札をたて、花と共に焼き米や正月に搗いた餅を供える。かつては入排水の便の良い田の一画に苗代を作り、そこで苗を育て、水を引きいれる水口にお札を立てた。
苗の緑化が終われば、シートを外して硬化期に入るが、そこで初めて苗を見ることになる。写真の苗を育てる矢野さんは、「どうしても場所によって成長具合に差が出る。未だ成功したことが無い」という。育苗は強い稲を育てるために最も大事な工程だが、天候や虫害等の自然環境に左右されることも多い。そうなると神様の出番である。讃岐の田の神様は、生活の中の願いと苦労の隙間に存在している。
近年では、育苗センターから苗を購入する農家が増えたことにより、苗の成長を見守る田の神様も、段々と消えゆく風景となっている。
民俗考01_讃岐の田の神信仰
「二月に山の神が田に降って田の神となり、秋が終つて十月又十一月に、山に登つて山の神となりたまふという言ひ伝へは、恐らくは日本の隅々、どこに往つても聴かれるほどの通説である」
「田の神の祭り方」
日本各地の田の神伝承が、田と山を去来(行き来)する性格を持つことを指摘した柳田国男による有名な説である。確かに、神様はそこに常駐すると考えられてきたわけではない。祭りに際しては臨時に神様を迎える長い依り代(オハケとも呼ばれる)を立て、祭りが終わればまた依り代を倒して神様を送る。田の神についても、春に田に降りてきて、秋になればまたどこかへ帰っていくと考えられていたようで、香川においてもそういった伝承は多く存在する。
それにしても、讃岐の田の神信仰は複雑で、一口に田の神といっても様々な神様が複層的に存在している。例えばゴーサン、サンバイサン、オカノカミ、ジジンサン等であり、それぞれの神様に応じた祭りが執り行われる。これら様々な田の神への複層的な信仰を具にみていくならば、単に田の神が山と田を去来する伝承のみが香川に存在しているわけではないことが分かる。本稿では、田の神に関する儀礼とそれに付随する去来伝承を整理しつつ、本県の田の神信仰の様相を概観してみたい。
水口祭り
「春稲種ヲ下ス時水口祭トテ苗代ノ水ロニ保食神ノ璽ヲ立、蒔余餘リタル籾ヲ熬リ、ハタキテ供フ、是ヲ棚焼米卜云、ソノ餘リハ親キ家二贈リナドモスルナリ、又此日正月二飾リタル門松ヲ蓄へ置テ雑炊ヲ煮ル家モアリ」
『西讃府志』
稲の育苗は「鶴の機織り」のようなものだという。その心は、決して中を覗いてはいけない。苗はデリケートで温度変化に弱いため、遮光シートで覆って一定の温度を保つ。苗の緑化が終われば、シートを外して硬化期に入る。育苗は強い稲を育てるために最も大事な工程だが、天候や虫害等の自然環境に左右されることも多い。そうなると神様の出番である。
苗の健やかな成長を祈って、県内各地では「ゴーサン(高松東部)」「マットメサン(西部)」と呼ばれる神社が配布する御札をたて、花と共に焼き米や正月に搗いた餅を供える。

大宮八幡神社(高松市屋島中町)配布の御札
安政5年(1858)成稿の『西讃府志』にも、冒頭の通りこの習俗の記載があることから、江戸時代後期にはすでにこの習俗が行われていたことが分かる。この習俗には、田の神の去来伝承は付随しない。神社が配布する御札を立てることから、江戸時代に各地の寺社が主導しこの習俗を広めていったと考えられる。
かつては入排水の便の良い田の一画に苗代を作り、そこで苗を育て、水を引きいれる水口にお札を立てた。近年では、育苗センターから苗を購入する農家が増えたことにより、苗の成長を見守る田の神様も、段々と消えゆく風景となっている。
サイケ・サノボリ
「サイケハ、サヒラキノコトニテ田ヲ始テ植ウル日ヲ言ナリ。三野豊田郡ニハナベテ此日ヨリ植エ終ルマデ、日々赤飯ヲ炊キ篩ニ盛リテ竪臼ニ供フ。」
「サムバヘハ足洗トモイヒテ親シキ人ナド招キテ会飲ス」
『西讃府志』
サイケとは、田植え初めの日のことを言い、サノボリは田植え終わりの日に親しい人や田植えを手伝った人を招いて飲食を行うことを言う。サイケの際、県内各地では三把の苗を特別視する伝承が各地に見られる。例えば綾川町東分では苗三株をまず植えてから「三宝荒神さん、今年も豊作でありますように」と唱えるという。東かがわ市白鳥町入野山では、苗三把を神棚に供えるほか、小豆島町池田岡条では、苗三把から一本ずつうえ、南天と餅を供えるという。これら三把の苗は、田の神の依代となるものであると考えられる。また観音寺では、オカエビスやオカハンに赤飯を供えるが、その米は正月にオカハンに供えたものを使うという。
今では育苗や田植えの合理化、機械化が進み、こうした習俗はほとんど見られなくなった。
オカノカミ
「秋稲ヲ刈収メ終リシ日ヲ、ヲカイレト云、保食神(ヲカノカミ)ノ入玉フナリトテ、小豆飯ヲ炊キ、枡ニ入レテ、宅神ニ供ヘ、家内打祝フ」
『西讃府志』
稲の収穫をする際に、最後に刈り取る稲束に田の神が宿るとして神聖視する風習は全国的に見られるが、香川県でも同様で、綾川町羽床上では、稲を刈り終えた日に、オカイレをしないと、オカノカミ(田の神)は裃を着て、家の戸口にいつまでも立っているから、田んぼから取り込んだ最後の一束の稲を抱えて庭に行き、「オカノカミサン帰ったぜ」と声をかけるのだという。また、東かがわ市白鳥では、最後に刈り取った稲を戸口にたて、ぼたもちを供える。この最後の稲束を家に持ち帰る際に田の神が家に帰ってくるのだという。
香川県のオカイレ習俗の多様性については、[拙稿 2023]をご覧いただきたいが、オカイレは、稲の収穫に際して、オカノカミ、オカエビス、オカハン等のウカノミタマ系統の田の神に、供え物を捧げる習俗であり、香川県全域に確認できる。そして、オカノカミには、田と家を去来するという伝承が付随する。
現在では、収穫した稲はカントリーエレベーターに運び込まれ、稲を家に取り込んだ日に行うオカイレは全く行われなくなった。
香川の農村を歩けば、必ずと言っていいほど五角柱の「地神塔」を見つけることができる。正面に「天照大神」、その他の面に「埴安媛命」「倉稲魂命」「大己貴命」「少彦名命」を刻む。祀りの日は社日、つまり春秋の彼岸に近い戊の日(概ね3月中旬、9月下旬)であり、この日は神職の最も忙しい日と言われる。なにせ各自治会に地神塔があって、宮司が一日かけて地区内の地神塔を忙しく回る。それでも、地神塔に集まる集落の参拝者の「田んぼに関わることだから、絶対に欠かせない」という言葉に応える宮司の姿が印象的であった。
さて、この社日の日は、田の神さんが田んぼに宿る日として、田んぼには入らないという伝承が広くある。また、三豊市豊中町のある家では、春の社日に地神さんは山から野に下り、秋の社日に山へ帰ると伝えられ、観音寺市においても同様の伝承が確認できる。一方で、三豊市三野町では、春の社日に田の神は家から田んぼに出て、秋の社日に田んぼから家に帰るのだという。三豊市高瀬町新名では、集落単位ではなく家単位で地神を祀っており、それはオカハンだという。オカノカミと地神が習合している事例として貴重である。
石塔に刻まれる年号から読み解くと、こうした五角柱の地神塔は文化・文政年間頃に阿波から讃岐に伝播したもののようだ。これまで述べてきた各家々で行われる稲作儀礼は大きく衰退している状況にあるが、こうした集落での農耕行事は現在でも実施されている。
この五角柱の地神塔は、香川にはどこにでもあると言っていいほどだが、実は香川、徳島、岡山に集中的に分布するのみで、他県には存在しない。一部瀬戸内地域から移住した人によって、北海道に建てられるのみである。香川の当たり前の風景だが、一度外に出たら見つけることは出来ないものである。

古高松町の地神
さて、これまで県内に伝えられる稲作儀礼を整理してきた。改めて事例を整理しておきたい。
水口祭りは各家々で行われ、苗を育てる苗代に引き入れる水口に、神社配布の御札を立てる行事であるが、そこに田の神の去来伝承は付随しない。サイケ・サノボリはそれぞれ田植え始めの日、田植え終わりの日を指し、田の神の依代となる三把の稲束を特別視する伝承が県内各地に確認できたほか、オカノカミに供え物を捧げる事例が存在した。オカイレは、稲の収穫に際してオカノカミ系統の名称を持つ稲の神に供え物を捧げる習俗であり、田と家を去来する伝承が県内各地に確認できた。地神さんは集落で祀られる農神であり、春と秋の社日の日に祭りを行う。この社日の日に田の神は山と田を去来するという伝承が一部地域で認められた。
さて、これらのうち習俗が行われるようになった年代がおおよそでも分かるのが地神である。石塔の建立年代から1800年代前半以降の習俗と考えられる。観音寺市出身の民俗学者、細川敏太郎は昭和中期に「オカハンは、地神さんや恵比寿大黒に比し、口にするものが一世代前の老人に多く、前にはそう言っていた」という重要な指摘をしている。こうした指摘から、サイケやオカイレ等の習俗はおそらく地神伝播以前から行われていたが、現在では田の神としての位置は地神に取って代わられていったことが分かる。その大きな要因は、育苗の際の水口祭りや稲を家に取り込む際のオカイレは、その儀礼と結びついていた工程が育苗センターやカントリーエレベーター等へ外部委託されることが多くなり、各家々で行われなくなったことで信仰が衰退したことにあろう。一方、地神は稲作の各工程に結びついているものではないほか、集落で祀る神であるために、比較的衰退しにくかったのだと考えられる。
さて、田の神の去来伝承に話を戻そう。比較的はっきりと去来伝承が確認できる事例はオカイレであり、秋の収穫の際にオカノカミは最後の稲束を依り代として田から家に帰るのだという。「帰る」という表現には、家から田に出ていったという意識をみてとれる。サイケ・サノボリの際には、田の神が家から田に出るという伝承ははっきりと確認できないが、この日には、正月にオカノカミに供えた米で作った赤飯を供えるという事例が存在し、サイケ・サノボリの際に田の神として祀られたオカノカミが、オカイレの際に田から家に去来し、正月の神として祀られた後に、また春に田の神として祀られるという循環的な構造を指摘できよう。
以上、複雑な讃岐の田の神信仰を考えるため、各習俗の歴史や去来伝承をヒントに、粗雑なガイドラインを引いた。全国的には、田の神は山と田を去来するというのが一般的であるが、こと讃岐の田の神信仰においては、オカノカミ信仰を基盤として、春のサイケ・サノボリ、秋のオカイレの際に家と田を去来するという伝承が主要であったが、だんだんと地神に取って代わられていったことを仮説として述べた。
参考文献
香川県教育委員会編 1982『新編 香川叢書 民俗篇』新編香川叢書刊行企画委員会
佐々木涼成 2023「香川県のオカイレ行事に関する基礎的調査と若干の考察」『香川の民俗』84号 香川民俗学会
細川敏太郎 1972『讃岐の民俗誌』三秀社
柳田國男 1949「田の神の祭り方(上)―月曜通信の十二―三月二十一日」『民間伝承』第13巻第3号 民間伝承の会