民俗考03_港と地形のつながり
直島には3つの浦がある。積浦、高田浦(本村)、宮ノ浦である。これらの地域の成り立ちという観点から遺跡の分布や時代をもとに積浦から高田浦という港の変遷の仮説をたて、具体的に地形測量を実施した。その結果、遠浅の積浦と水深の深い高田浦(本村)という港と地形につながりがあることがわかってきた。そして、港の地形は船の規模・構造ともつながることとなり、地形から港、すなわち島の中心地が変遷したことが分かってきた。

積浦港で水深を図る様子
平成15年(2003)、積浦で道路(県道北風戸積浦線)が建設された時、砂の中から石を積んだ何かと、たくさんの土器のカケラが見つかった。今から700~500年ほど前、鎌倉時代から室町時代頃の港の跡と、港に運ばれた播磨(兵庫県)・備前(岡山県)・讃岐(香川県)の焼物であった。積浦の港は、海岸沿いの砂州と、砂州でふさがれた湿地(ラグーン)との間にあったようで、絵巻物などにも描かれた風景とも類似している。
鎌倉時代の港は、どのような地形の場所を選んでいるのか? 港町として有名な尾道や博多では、海岸が埋め立てられ、都市化が進んでいて、古い地形が全く残っていない。積浦でも埋め立てが進んでいるが、何とか当時、どんな地形であったかを観察することはできる。そこで令和3年(2021)11月7日と20日、直島町のご協力を得て地形の高さの測量を実施した。その結果がである。縦と横の縮尺を変えているので、実際よりも急に下がっているように見えるが、300mあまり沖に行っても深さは潮位基準面から5.5mほどで、潮の流れも緩やか。遠浅な入江の地形を利用して港が造られたことが分かる。聞き取りでも、積浦は遠浅な浜が広がっており、アサリがたくさん獲れたこと、冬場にボラ漁が盛んに行われていたことなどを教えていただいた。
一方、本村港は、最も深いところは積浦よりわずかに深い程度であるが、急激に落ち込み砂浜はない。向島との間の海峡(水道)の潮の流れが速いが、干満の間に潮が止まることがあり、昔は子どもたちが素潜りして魚を突いていたということであった。泳ぐのにじゃまなほど海藻が茂る藻場があったそうだ。
積浦と本村の海岸と海底地形のちがいは、そのまま港としての使われ方のちがいを表している。積浦のような遠浅な砂浜では、船を浜に乗り上げさせて停めることができるが、船底の深い大型船は入ることはできない。「子どもの頃にニッパチの風が強い時に、積浦に帆船がたくさん溜まっていたのを見たことがある」という地元の方の話からも、中・大型の和船は沖に停泊させていたことがわかる。ところが鎌倉時代の船は下の部分が丸木船の形をしていた「準構造船」とよばれるもので、浜に乗り上げるのには適しており、出土した土器のカケラは港としての歴史を示している。一方、急に水深が深くなる本村は、西回り航路の廻船などの大型船が多くなる江戸時代に港として利用されるようになった。

積浦(青線)と本村(赤線)の海底断面模式図
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