讃岐一景を訪ねて_vol.03

民俗考_直島群島

March 19,2025

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土地を訪れて、歩くことで見えてくるもの
フィールドワークとその魅力

 フィールドワークをする際には、事前に、国土地理院で、古い地図や航空写真を見て、地形の移り変わり、地質、遺跡(種別、時代)、旧跡をもとに地域の歴史などを調べ、現在に至るまでの地形の移り変わり、特に海浜部や河川の変化から、訪れる土地がどのように変化してきたのかを頭に入れておく。そして現地を訪れる。
 まさに、百聞は一見にしかず。
 現地を歩くといつもそのイメージをいろいろな形で覆される。歩くたびに新しい発見がある。そこが面白い。
 土地の微細な凸凹、起伏は、土地の移り変わりを私たちに教えてくれるし、土地に残る、建物や構造物などの様々なモノたちが、地域の成り立ちや今までに蓄積されてきた物語や知恵を私たちに伝えてくれる。さらに地域の専門家である地元の方の語りは、点在する様々なモノたちをつなぎ、地域に眠った「物語」や先人たちの知恵を浮かび上がらせる。
 これこそ、フィールードワークの醍醐味である。

荒神島でのフィールドワーク:目の前には薮


民俗考01_直島でのフィールドワーク

 平成13年の発足以降、これまで、四国内を中心にフィールドワークを行ってきた。時には熊本県水俣市に出かけたりもした。
 令和3年度からは、直島でフィールドワークを行なっている。今回の調査では、フィールドワークに加えて、80歳以上の方の聞き取りに重きを置いた活動を行っている。今回の調査は様々な「つながり」が「かたち」づくっているものは何なのかという視点で「地域」を考えてみたいと考えている。

直島群島


民俗考02_記憶のつながり

 令和3年11月から12月にかけて、直島にお住まいの年輩の方11名(ほとんどが80歳代以上)に話をうかがった。
 聞き取りした内容を短いコメントにし、その出来事があった場所に書き込んで、話をしてくれた方のお住まいの本村・積浦・宮浦の地区を、線でつなぐと、どの地区の人が、出来事の記憶をもっているのか、ということが一目でわかる。
 この図からは、二つの傾向が読み取ることができる。
 一つ目は、全ての地区の人たちで共有されている記憶である。三菱精錬所(三菱マテリアル)での出来事は、みなさんよく知っていて、情報のずれもほとんどない。これは、どの地区でも精錬所で働き、共通した経験をもつ方がいる、ということを示している。また、戦時中の記憶についても、高松空襲などが3地区で共有されている。おいしい水が得られた「今井戸」や、石工が島にいたこと、精錬所の造成で埋められた「風戸」集落、という記憶も共有されている。
 ⼆つ⽬は、各地区の⼈たちの間だけで共有されている記憶である。たとえば積浦では、積浦湾でのボラ漁や琴弾地の兵器廠の記憶、崇徳天皇神社近くの気味悪い場所(ソーメンガワ)の⾔い伝え、男⽊島から積浦へと移住してきたという由緒意識がある。宮浦では、⼤槌島や男⽊・⼥⽊島への伝⾺船での往来や、葛島・荒神島での⽔⽥耕作の記憶がある。ところが本村では、他の地区と共有された記憶が多く、この地区が明治時代以来、⼩中学校や役場が置かれた島の中⼼部だったことが明らかである。
 3つの地区の⽅に聞き取りをした時は、必ず最後に「直島で最も古くから⼈が住み、開かれた場所はどこだと思いますか?」とたずねた。すると、「本村だと思います」という答えが、すぐ返ってくる。歴史的な経緯としては、もう少しちがったことを私たちはイメージしているが、地域の⽅々がなぜそう思うのか、似ていても解きほぐしていきたい。

本村(青線)、宮浦(黄色)、積浦(赤色)と記憶のつながり


民俗考03_港と地形のつながり

 直島には3つの浦がある。積浦、高田浦(本村)、宮ノ浦である。これらの地域の成り立ちという観点から遺跡の分布や時代をもとに積浦から高田浦という港の変遷の仮説をたて、具体的に地形測量を実施した。その結果、遠浅の積浦と水深の深い高田浦(本村)という港と地形につながりがあることがわかってきた。そして、港の地形は船の規模・構造ともつながることとなり、地形から港、すなわち島の中心地が変遷したことが分かってきた。

積浦港で水深を図る様子

 平成15年(2003)、積浦で道路(県道北風戸積浦線)が建設された時、砂の中から石を積んだ何かと、たくさんの土器のカケラが見つかった。今から700~500年ほど前、鎌倉時代から室町時代頃の港の跡と、港に運ばれた播磨(兵庫県)・備前(岡山県)・讃岐(香川県)の焼物であった。積浦の港は、海岸沿いの砂州と、砂州でふさがれた湿地(ラグーン)との間にあったようで、絵巻物などにも描かれた風景とも類似している。
 鎌倉時代の港は、どのような地形の場所を選んでいるのか? 港町として有名な尾道や博多では、海岸が埋め立てられ、都市化が進んでいて、古い地形が全く残っていない。積浦でも埋め立てが進んでいるが、何とか当時、どんな地形であったかを観察することはできる。そこで令和3年(2021)11月7日と20日、直島町のご協力を得て地形の高さの測量を実施した。その結果がである。縦と横の縮尺を変えているので、実際よりも急に下がっているように見えるが、300mあまり沖に行っても深さは潮位基準面から5.5mほどで、潮の流れも緩やか。遠浅な入江の地形を利用して港が造られたことが分かる。聞き取りでも、積浦は遠浅な浜が広がっており、アサリがたくさん獲れたこと、冬場にボラ漁が盛んに行われていたことなどを教えていただいた。
 一方、本村港は、最も深いところは積浦よりわずかに深い程度であるが、急激に落ち込み砂浜はない。向島との間の海峡(水道)の潮の流れが速いが、干満の間に潮が止まることがあり、昔は子どもたちが素潜りして魚を突いていたということであった。泳ぐのにじゃまなほど海藻が茂る藻場があったそうだ。
 積浦と本村の海岸と海底地形のちがいは、そのまま港としての使われ方のちがいを表している。積浦のような遠浅な砂浜では、船を浜に乗り上げさせて停めることができるが、船底の深い大型船は入ることはできない。「子どもの頃にニッパチの風が強い時に、積浦に帆船がたくさん溜まっていたのを見たことがある」という地元の方の話からも、中・大型の和船は沖に停泊させていたことがわかる。ところが鎌倉時代の船は下の部分が丸木船の形をしていた「準構造船」とよばれるもので、浜に乗り上げるのには適しており、出土した土器のカケラは港としての歴史を示している。一方、急に水深が深くなる本村は、西回り航路の廻船などの大型船が多くなる江戸時代に港として利用されるようになった。

積浦(青線)と本村(赤線)の海底断面模式図


民俗考04_島に潜在する環境と人のつながり、島の暮らしのかたち

 宮浦や本村の方からは、直島の周辺の小さな島々でイネが作られていたことを教えてもらった。宮浦の港の沖にうかぶ葛島や荒神島、本村の沖の向島には、水田とため池があったということだった。これは、古い航空写真でも確認でき、葛島や荒神島は無人島で、宮浦の人が伝馬船をこいで田植えに行っていたという話であった。もちろん、これらの水田は、明治時代より後のものと見るのが妥当であるが、それ以前の小島での稲作は行われたことはなかったのだろうか? 小島に船で渡ると、井戸、ため池、湧水地点を見つけることができ、これは、宮浦の方から、「島には水の湧くところがある」ということを教えてもらったことと合致した。
 このことが面白いのは、直島周辺の小島がこれまで、遺跡を中心に語られてきた製塩業や航海の安全を願ったカミ祭り、といったように、ある目的のためだけに使われた、という解釈を見なおすきっかけになるのではないか、と考えられたからである。
 多くの島が所在する瀬戸内海において、小島での暮らしはどういったものであったのか?複数の島を利用した暮らしだったのか、島の地形や季節の風や日照などの条件に合わせて、田んぼや畑を作り、タコや魚を獲るといういくつもの生業を組み合わせたくらしを送っていたのか。見方を変えると、まったくちがった島での暮らしのイメージが浮んでくる。私たちは、小島での暮らしは、様々な島を巧みに利用したものであり、島によっては、多様な生業が複合したもので、島の植生(木や草)や地形などの自然環境とある程度調和した形だったのではないか、という仮説を提案したいと考えている。

喜兵衛島北西海岸の葦


 こうしたイメージを具体的に考えるために、まず、地元の方の話にもとづき、航空写真等で島の地形を観察してみた。そうすると、直島周辺の島には水田などの耕作地やため池があることが確認できた。特に、水田には、①谷筋に小水田を連ねるもの(棚田)、②浜堤の後背地を利用したもの(湿田)の2つのかたちがあることがわかった。加えて、瀬戸内のほかの島での発掘調査の事例などと比較してみても、荒神島や葛島のような小規模な島でも、湧水を利用して農作物を栽培する環境が想定できるのである。
 そのイメージを深めるため、葛島、荒神島、家島、喜兵衛島、屏風島に渡り、直島の人たちとともに歩いた。藪漕ぎの連続だった。地図や船から見る直島周辺の島々は、その多くが現在、無人島になっており、人が暮らしづらい環境だと勝手に思い込んでいたが、島の人たちの話どおり、藪漕ぎの先に私たちのイメージとは異なる多様な生業の痕跡が残っていた。
フィールドワークの結果、
① 湧水地点(水源地)の発見とその利用(水の確保)
② 住まいや生産の場としての海と丘陵の間の利用
③ 斜面などの周辺地の利用と複合的な生業
という3つの観点で、環境とのつながり方に共通するかたちが見出せるのではないかと考えられた。

荒神島に残るため池

小島における土地利用のイメージ図


①湧水地点(水源地)の発見とその利用(水の確保)
 考えれば当たり前のことであるが、水田、畑問わず、人が暮らす・暮らした場所では、必ず水が確保できる場所があった。確保の方法は井戸とため池があるが、確保できる水量は周辺の微地形や立地によって違いがある。家島のように、井戸であっても水量が一定量確保できれば、定住が可能であった。巨視的に似た地形であっても、浜堤の後背地の背後の谷筋の有無などちょっとした地形の違いで、ため池で確保できる水量が異なることも分かった。そのため、雨量によっては、恒常的な水の確保が困難であった場所もあったと思われる。

②住まいや生産の場としての海と丘陵の間の利用
 住む場所は、家島の例から、丘陵の手前にある海浜部から少し高くなる平坦地が選ばれていて、葛島の養豚場(現代)などの施設も同様な立地であった。さらに、家島の場合から、西風をうまく避けるような地形の場所をうまく利用していることもわかった。浜堤の後背地が農作物の栽培などの場としてどのように利用されてきたかはまだ分からないが、後背地は、浜堤よりやや低く、広い平坦な土地で、葦が繁茂していることからも、水田などとして利用された可能性も考えられる。遺物が多数見つかる場所もあり、昔、人の暮らしが営まれるような場所であったこともわかった。遺物の年代から過去に数回にわたり利用された場所であったことようである。また、湿地や遠浅になっている場所は、家島のように防潮堤などの構造物を築くことで、塩田として大規模に利用される場合もあった。
 いずれの場合も、住む場所や農作物を栽培する場として海岸線(水際)から丘陵(斜面)までの間の土地を可能な限り、かつ巧みに利用している点は共通する。これは喜兵衛島の発掘調査の事例でも確認されており、時代を超えて共通する「かたち」と考えられ、近世以前の暮らし方を考える上でも重要な手がかりになると考えている。

③斜面などの周辺地の利用と複合的な生業
 家島の例から、より安定した暮らしのためには、斜面などの周辺地をどれだけ利用できるかが重要になる。斜面をいかに農地として利用するかは、斜面の傾斜だけでなく、確保できる水の量にも影響を受けるため、確保できる水量を最大限に活用できるよう、ため池が造られる場合もあった。水が確保できる程度によっては、水田から畑へと変化したものもあっただろうし、荒神島の谷水田のように確保できる水が豊かでも、水田が放棄される場合もあり、投入できる労働力や暮らし方の変化によって、開墾した農地を放棄することもあったことがわかる。実際に多くの農地が利用しやすい緩やかな斜面のみに留まっていることや、直島にとどまらず、戦後に各地で開墾された斜面地の農地がすでに放棄されていることから考えても、斜面の利用はかなりのコストがかかるものだったことが分かる。

家島の土地利用のイメージ図


 いずれにしても、より安定した、より豊かな暮らしを営むために、周辺の多様な環境を巧みに利用し、食料や資源の確保が目指されたと考えられる。このことは、家島のように塩田による製塩業を主な生業として暮らしを営んでいた島でさえも、周辺で農作物の栽培や小規模な漁、それらの販売等が行われており、複合的な生業が暮らしを支えていたことからもわかる。
 巨視的には似たような場所でも、島の多様な自然環境や微細な地形によって、土地の利用やその継続性に違いがあることを知ることができた。その一方で、環境と人のつながりには共通するかたちがあることも確認することができた。

「地域」のかたちを知る
 さて、調査を続けている島々は、現在は無人島で、住まいや農地などは自然に戻りつつある。これは、戦後の産業の変化、交通手段の変化、昨今の人口減少などの社会的環境の変化によるものではあるが、「場の利用(開墾・開発)→放棄→場の利用」というサイクルは、島に所在する各遺跡からも見て取ることができるものでもある。大胆に言ってしまえば、ある時代や時期の土地利用のあり方が必ずしも固定化して、継続するものではないということを伝えているとも言える。
 今後も、直島の人々の「地域感覚」に学び、絶えず変化する中で、人々が生み出し、残した・残ったものと向き合いながら、島の方々と語らいながら、「地域」のかたちについて、直島群島のフィールドワークを通じて考えていきたい。

荒神島での調査を終えた夕方の一コマ


文:四国村落遺跡研究会/2001年創設。四国を主な対象として年数回、フィールドワークを行い、長い年月をかけ形づくられ、地域固有の資産となっている、様々な文化的・自然的な所産=地域遺産を新たにドキュメント化する学術調査や研究を長期的に実施し、そこで培われた学術的な成果を知の地域資産として編纂し、社会的な還元を目指す。また、地域を多様な視点で捉え、新たな価値を創出していくことを目的として活動を行っている。メンバーは考古学・文献史学・民俗学などの多様な分野の研究者からなる。調査・研究を行う際には、2つのコンセプトのもとに活動している。1つ目は、各分野の枠組みを超えて地域の特性を総合的に明らかにすること、2つ目は、地域を知り尽くした「専門家」である地域住民からの学びの機会を確保することである。令和6年度の調査は「直島ヘリテージ・カウンセリング・プロジェクト」に対して、公益財団法⼈福武財団の瀬⼾内海地域振興助成(新規・チャレンジ助成)を受けている。また、荒神島での棚田の調査は株式会社ベネッセホールディングス(直島事業課)のご理解とご協力のもと実施している。

活動の詳細はこちらからご覧ください。
https://x.com/SKSR_KKK
https://www.instagram.com/sksr_kk
https://www.facebook.com/groups/721883912085361


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