【中津万象園】丸亀藩主たちが愛した癒やしの海の庭 vol.1
March 29,2018
香川県丸亀市。中津万象園は、市の中心地にある丸亀城から3㎞ほど離れた海岸沿いにあります。
夕方には沈みかけの太陽が木々の間から赤い光をこぼし、松の枝に海鳥が羽を休める海ぎわの庭園には、かすかに潮の匂いもします。
この庭を造り始めたのは、近江から丸亀に封入した京極家の二代目藩主、京極高豊候。
1658年、高豊は父とともに瀬戸内海を渡りました。
父の死後8歳で家督を継ぎ、藩を治めると、後に「中津万象園」となる「中州のお茶所」を造り始めました。
中心となる湖は、故郷である近江の琵琶湖を模したと言われます。
【仁清窯に影響を与えた文人気質の京極家】
京極家は、天皇家の血を引いており、公家らしく洒落た文人的気質を持つ家系だったとされています。
高豊も絵画の才に秀でており、それを表すエピソードも残っています。
京極家は、京都の陶工・野々村仁清が開いた仁清窯に深い縁がありました。
高豊は仁清窯に、優雅な京都のイメージの下絵を渡し「大型の立体に、どの方向から見ても華やかで、破綻のない図柄を付けて欲しい」と度々発注しました。
この注文がきっかけで、茶道具に雅な色彩を持ち込み、全面に絵柄を配した仁清窯の特徴になり、多くの傑作が生まれたといわれます。
【海ぎわの楽園までぶらぶらと散歩】
高豊の芸術の才は庭造りにも多大なる影響を及ぼしたとされていますが、築庭当初の記録は火事で消失しています。
しかし江戸後期なら、2つの書物に中津万象園が書かれています。
六代・高朗(たかあきら)が「琴峯」という筆名で詠んだ漢詩集「琴峯詩集」と、七代目にして最後の藩主・朗徹(あきゆき)の時代に親族が書いた「丸亀京極家日記」です。
それらに描かれていたのは、時には鉄砲の訓練のため、時には建網漁や漢詩の創作のため、藩主が親族や藩士と共に気軽に庭に立ち寄る姿。一般的な大名庭園のように社交や儀式は行われず、ただただ寛ぐ場だったのでしょう。
高朗は、丸亀城や下屋敷から時にはぶらぶらと歩いて庭を訪ねました。庭で詠んだ詩、道中で詠んだ詩も数多く残されています。
【時代を超えて愛された殿様の庭】
現在の中津万象園は、お茶室を除くと、江戸時代の状態を保存したというより、様々なアプローチで再生した庭です。
明治以降は民間に渡り、荒廃した時期も経て、その後の歴代の持ち主たちが、「地元の名園を絶やすまい」と各々に調査し、各々の思いを込めて改修してており、庭が愛された証拠と言えます。
ちなみに、1970年代からの大規模な改修は、足立美術館の作庭や兼六園の修復で知られる、中根金作氏が監修しました。
また、親密な雰囲気のこの庭を、日本庭園の研究者である尼崎博正教授は、「代々のお殿様自身が楽しんだ、ヒューマンスケールの庭」と表現していています。