1.路上「から」観察する
1986年、赤瀬川原平、藤森照信、南伸坊、林丈二、松田哲夫、杉浦日向子、荒俣宏らによって発足した路上観察学会の実践は多岐にわたり、共通した定義を見出すことは非常に難しいが、あえて最大公約数的に言えば、誰にも気づかれず路上に存在する摩訶不思議な「物件」を写し、収集・分類し、名づけを経て「物件」を共有する実践である。ただし、ここで言う「路上」とは、単に人々が通行する道路を指すだけではなく、赤瀬川にとっては対象が芸術か否かを判断しようとする芸術家たちの志向性に侵されてこなかった、あるいは藤森にとっては建築史が価値づけてこなかった、主流からこぼれ落ちたものがなお生き続ける空間であり、あらゆる水準のコミュニケーションが繰り広げられる日常生活の現場でもあった。その意味では、「路上」の対義語とは、「美術館」や「伝統」といったある種の正統性・権威性のニュアンスだと言える。そう、路上とは、観察する対象でありつつ、路上「から」観察する、という姿勢でもあっただろう。

1991年には、路上観察学会は香川県政策部の招きをうけ、県内をくまなく観察している。その成果は『路上観察学会 讃岐路をゆく』という本にまとめられている。
さて、いずれ1986年に路上観察学会として結実するこうした実践は、突如として現れたものではない。そこには少なくとも二つの前史が存在する。
一つは、「路上」という想像力をめぐる空間の前史である。路上観察学会が着目したのは、誰も気に留めないありふれた風景そのものというより、それらとのコミュニケーションのなかで立ち現れてくる意味や面白さであった。その風景からメッセージを受け取り、見立てによって物語を与える想像力は、近世の名所文化の中にも見ることができる。
もう一つは、「路上観察」という表現方法の前史である。路上観察学会の特徴は、路上にある珍しいモノを発見するだけではなく、それらを収集・分類し、命名し、パロディ化しながら共有したその方法にあった。路上観察学における収集・分類は、考現学の影響が知られているが、そのパロディ性についてはどこから生まれたのだろうか。その手がかりの一つとして着目すべきは、讃岐が生んだ反骨のジャーナリスト、宮武外骨である。実際、赤瀬川は路上観察活動以前から外骨に強い関心を抱いていたことが知られている。
本稿では、まず『金毘羅参詣名所図会』などに見られる近世の名所文化から、「路上」をめぐる想像力の前史をたどる。続いて宮武外骨の実践を手がかりに、「観察」を表現へと昇華する方法の系譜について考えてみたい。
2.「見立て」という路上的想像力
路上観察の特徴の一つは、他人が見過ごしてしまうようなモノに価値を見出すことである。赤瀬川らが発見したトマソンも、林丈二が注目したマンホール、あるいは藤森が発見した看板建築も、本来は誰も特別な意味を見出していなかった存在であった。しかし、観察者の視線によってそれらは新たな意味を帯びる。
こうした視線のあり方は、1980年代に突然現れたものではない。江戸時代の人々もまた、風景の中に珍奇なモノや不思議さを見出し、それを楽しんでいた。
弘化4年(1847)に刊行された『金毘羅参詣名所図会』は、著者の暁鐘成が現地調査を行ったうえで、金毘羅参詣道や遍路道の各所に存在する名所について、挿絵とともに解説を行った、いわば江戸時代の『るるぶ』だ。

そこには弥谷寺(三豊市三野町大見)から鳥坂峠を越えて曼荼羅寺(善通寺市吉原町)に至る遍路道に、「人面石」と呼ばれる奇岩があることが、挿絵とともに記されている(図2)。それによれば「巨厳悪相の人面のごとし」、つまり悪人のような顔つきをした巨岩があるという。この名所は、近代に入ってからも『讃岐名勝地誌』(明治32年)にも「悪相なる人面」と記されており、テキスト空間においては、悪人の顔、という評価がなされ続けてきたことがうかがえる。
一方で、地元の伝承では、この人面について「悪相」とは別の性格が付与されてきたようだ。『四国の昔ばなし』(山口青旭堂)所収の「人面石(善通寺市)」には、荒れた土地を開墾し、村を助けた大男が、飢饉の際に餓死した大男の苦悶の表情であるという。
旅人から見たら「悪人」、地元では「村を助けるも餓死した大男」、その語られ方は全く真逆だが、いずれにしても人々は風景から様々なメッセージを読み取り、物語を常に作り出し続けてきた。
また、こうした見立ての最たる例の一つは「象頭山」だろう。御承知のとおり、こんぴらさんが鎮座する山を、象の頭に見立てて象頭山と呼ぶ。いつ頃からそんな見立てがされるようになったかは不明だが、17世紀には「象頭山十二景図」という境内の画が描かれているから、この呼び方は結構古いらしい。日本に初めて象が来たのは、15世紀初頭のことらしいので、それ以降呼ばれるようになったのだろうか。
人面岩もただの岩、象頭山もまた単なる山に過ぎない。実際、現代の私たちが象頭山周辺から山容を眺めても、「象の頭みたい」と感じる人は少ないだろう。しかし、一度そう教えられると、誰が言ったか知らないが、言われてみれば確かに見える。
奇岩、奇木、あるいは何かの姿に見える山々等々。人々はそれらからメッセージを受け取り、名前と物語を与え、語り継いできた。名所とは、「何かに見える」という人々の見立ての想像力によって成立する空間でもあった。
百数十年後に路上観察学会が発見することになる路上の物件も、それ自体はただのモノでありつつも、風景との相互コミュニケーションを経て、「物件」として対象化した瞬間に、ありふれた風景は新しい意味を獲得する。なるほど確かに路上観察が1980年代に突然生まれたように見えるのは、その対象が都市にあったからであるが、見立てによって風景に意味を見出す想像力の歴史で言えば、少なくとも江戸時代の名所文化にまで遡ることができる。
3.宮武外骨の表現プロセス
しかし、こうした名所文化を、そのまま路上観察へと結びつけることはできない。人面石や象頭山に代表される近世の見立ての文化は、風景の中に面白さを発見する実践ではあったものの、それを表現として現前させる段階にはまだ至っていないからだ。
路上観察学会の独自性は、単に珍奇なモノを発見したことではない。対象化した物件を、写し、収集し、命名し、分類し、ときにパロディ化しながら共有するプロセスそのものが、即、日常の風景を異化する表現となっていた点にあった。
こうした表現プロセスの源流を考えたとき、注目すべき人物が讃岐出身の宮武外骨(1867~1955)である。外骨は、明治・大正・昭和前期と、人々のあいだに流通する俗なる表現や奇妙な事物を収集し続け、それらを分類し、命名し、パロディが貫く表現として再構築する。
赤瀬川は、1972年に第一号トマソンである「四谷の純粋階段」を発見するその前、1967年春に宮武外骨の雑誌を発見する。美術評論家の赤塚行雄より、阿佐ヶ谷の古本屋に超珍本があるから来いと電話があり、その古本屋で手にしたのが宮武外骨による雑誌「ハート」だったという。後に「キッチュ」と名付けられる表現の源流を外骨に発見した赤瀬川は、著書『櫻画報』を外骨に捧げる辞を書き、その後1973年より、『新劇』(白水社)にて外骨教室を連載する。ここで赤瀬川は外骨の面白さを5つ挙げている。すなわち、しつこいこと、即物的であること、読者への迎合がなく人を食っていること、ものごとを見つめる視線が物理的・科学的であること、行動的であることだという。
なるほどこれは後の路上観察にもつながる面白さだが、結論を先取りして言えば、赤瀬川が外骨にみたものは、人物としての魅力だけでなく、その表現プロセスだったといえる。そこで、このプロセスを、外骨の著作から取り上げてみたい。
宮武外骨は、慶応3年(1867)、「讃州羽床郷小野」、現在の香川県綾川町小野の庄屋に生まれる。幼名は亀四郎、明治11年、齢12歳で高松の栄義塾に学び、15歳で上京し、新聞や雑誌に投書を始めている。18歳の時に、亀は内肉外骨、つまり肉は内にあり骨は外にあると中国の辞典に記されていることを見つけ、外骨と改名する。
明治20年以降、『頓智協会雑誌』を発行する。明治22年2月に「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」から始まる大日本帝国憲法が公布されると、翌3月発行の『頓智協会雑誌』28号にて、「大頓智協会ハ讃岐平民ノ外骨之ヲ統治ス」に始まる「頓智研法」12条と、玉座に立つ骸骨が頓知研法を下賜する図を掲載し、徹頭徹尾、明治憲法に代表される「国體」をパロディ化した。当時としては至極当然、有罪判決を受ける。その後も権力パロディを貫いた出版活動を続け、生涯で14回の発禁処分、15回の罰金刑、4回の入獄をくらっている。よくもまあここまで過激な姿勢を貫けるものだ。


ただし、外骨は単に異色の反権力ジャーナリストとして露悪的な雑誌を発行していただけではない。常に表現方法を研究しつつ、自身の表現を模索し続ける探究者でもあった。例えば、『人面類似集』。そこには先述の善通寺の人面石をはじめ(図3)、人面瘡、人面魚、さらには災害を予言するとされた「件(くだん)」など、人面に見える事物や怪異譚が数多く収集されている。これだけ読むと民俗学の著作のようにも見えるが、外骨の雑誌には、人面の動物類の挿絵が多数現れる。例えば宮武外骨主筆の雑誌『スコブル』の表紙の人魚である(図4)。この人魚は、江戸時代の戯作者、山東京伝の黄表紙に描かれる人魚と並べて掲載する。このように外骨は、大衆の「見立て」文化を「人面類似」という分類によって整理し、それをそのまま自身の表現へと接続している。

また、神社の手水鉢の四隅を支える天邪鬼。これは坂出市の総社神社にも似たような物件が存在するし、巷間にあふれる物件だっただろう。外骨はこれを「圧制時代の表章遺物」と名付け、「徒に強者の苛虐を受けて居た事に想到して、轉た痛哭同情の念に堪えない」と述べている(図5)。もちろん、外骨は本気で言っているわけではない。いや、正確には大真面目な顔でフザケている。
こんなふうに、外骨は対象化した物件を、写し、分類・収集し、命名するという、パロディが貫く路上観察の表現プロセスを、すでに鮮やかに現前させている。
余談だが、こうした態度は、同時代の大学者であった柳田国男が「俗士の好奇心をそそるために学問を悪用する」とか、外骨のせいで南方熊楠が捕まったとか散々に批判するのだが、外骨の死後、「会う機会がありそうなものだったと思うが不思議にも会えないで終わった」「明治の変り種の一人」と惜しんでいる。「過激にして愛嬌あり」を自称した外骨らしい惜しまれ方である。

小括-見立て・外骨・路上観察
閑話休題。以上、「路上」という想像力と「観察」という方法の二つの前史を、讃岐という土地を手がかりにたどってきた。近世の名所文化において、人々は人面石や象頭山のように風景を見立て、名前を与え、語り継いできた。そこには、ありふれた風景のなかに意味を発見し、それを共有するための市井の想像力が存在していた。そして、宮武外骨は、そのような想像力が生み出す大衆文化や俗なる表現―それは言い換えれば路上≒市井のパフォーマンスである―を収集し、命名し、編集し、パロディとして再構成した。
赤瀬川らの路上観察は、その想像力と方法を都市の風景へ適用したものとみることができる。
もちろん、これらを一直線の系譜として語ることは難しいが、表現プロセスの方法史として見たときに、名所文化―宮武外骨の表現―路上観察学という連なりがみえてくる。そのとき、讃岐という土地が、この系譜のなかで意外なほど重要な位置を占めていることにも、同時に気付かされるのである。
※1 暁鐘成一世編 1847『金毘羅参詣名所図会 6巻 [3]』より転載(国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/14671802)
※2 宮武外骨編 1931『人面類似集 (随題随記随刊 ; 甲 1)』より転載(国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1465483)
※3 同上
※4 宮武外骨編1910『奇想天来』雅俗文庫(国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/882371)
参考文献
赤瀬川原平 他編 1986『路上観察学入門』筑摩書房
赤瀬川原平 1991『外骨という人がいた!』筑摩書房
吉野孝雄 編 1985『宮武外骨 余は危険人物なり 宮武外骨自叙伝』筑摩書房
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